教科書探しの危険性

http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000876

 	「自分に都合のいい論理・結論」は「検証しないとダメ」だよね
  	
小島:
	
「安易に結論を引き出せるけれど、論理に飛躍があるもの」は、一笑に付すというか、ほっておけばいいと思っていた部分もあるのですが、そういうものに批判的になったり、異様に警戒心をもってしまうようになったのは、たぶんオウム事件以降ですね。
 イデオロギーでなければいいと思うんですよ。ただの他愛ない占いみたいなものとか。でもオウムはイデオロギーだったし、ケインズも明らかにイデオロギーだから、検証なしにうのみにしてしまうのはやはり非常に危険だ、という強い警戒感が働くんですね。
 
平林:
	
オウム事件を眺めた結果、「うのみ」にすることの危険性を強く感じた、ということなんでしょうか?
 
小島:
	
オウムにはまった人たちって理系が多かったじゃないですか。あぐらのまま飛び上がれるとか、水の中で何十分暮らせるとか、「眉唾」だったり、「それがどうした的なこと」だったりするものを、理系の教育を受けた人たちが安易に信じたり尊敬したりしてしまったのはどうしてなんだろう、と考えたわけです。
 そこで思ったのは、自分が欲しがっている「あまりに魅力的な結論」を与えてくれる適度な理屈・ロジックに飛びついちゃったんじゃないか。胃の痛くなるような検証をするとか、自分に最も不都合なケースを想定するとか、科学的検証の基本中の基本を、無意識に避ける性癖が、あの人たちの中にあったんじゃないかな、って思ったのです。そして、それは僕の中にもあるかもしれない、という恐怖感が起きました。
 
平林:
	
とても、耳に痛い言葉ですねぇ……。

というくだりを見て、「自分で考えなくても(発見する努力をしなくても)良い」とか「どこかに完璧(自分に合った)な教科書(とか指導者)が存在する」って思ってしまう危険性を思い出した。
やっぱり自分で考えて、努力して、理論武装もしていくっていう手順が王道なんだなぁと思ったり。